発端


1971年(昭和46年)6月 大阪市が「中之島東部地区再開発構想」を発表。
 この構想は、御堂筋に面した大阪市庁舎、府立図書館、中央公会堂といった歴史的建造物がならぶ地域に人工地盤をすっぽりとかぶせ、その上に25階建高層ビルの市庁舎、5階建ての議事堂、6階建てのホールを新たに建設する、という物。
 この「石とレンガ」、「水と緑」とが一体となった中之島の心和む景観を一変する計画に、真っ先に反対の声をあげたのは、若手の建築家や技術者の集団「新建築家技術者集団」(略称「新建」)でした。
 10月には、市にたいし保存要望書を手渡すといった行動をおこしますが、まったく取り合ってもらえませんでした。

 しかし、11月、「大阪科学シンポジウム」にて科学者団体に中之島保全を訴えたのを皮切りに、12月には再び要望書提出、街頭でのビラまき、署名運動。
 1972年(昭和47年)に入り、中之島建築群の実測調査、保全ポスターの発行、小冊子「水と緑と伝統のまち−中之島」刊行、と市民へ積極的に働きかけていきました。

 7月には初めてのPRイベント「クラシックカーによる市内キャンペーン」をおこない、公会堂と同時期に製造された90型リムジンなどを公会堂前に展示し、これをマスコミがとりあげたこともあって、予想を上回るPR効果をあげました。

「中之島をまもる会」

1972年(昭和47年)10月
「運動の中心になっていくのは、あくまでも一般の市民でないと、成功しない。」の運動基本方針から、中央公会堂小集会室に約170人の市民、文化人、学者が集まり「中之島をまもる会」が設立されました。
組織力や政党に頼らない人集めで、大阪にゆかりのある人にかたっぱしから呼びかけて集まってもらいました。

11月「中之島をまもる市民集会」がおこなわれ、公園と一体になっている中之島の景観を、ただの凍結保存にとどめず、活動の場として生かすために、市民の手によるまつりを開催してはどうか、という提案が出され、満場の拍手を持ってむかえられました。
こうして「中之島まつり」は、中之島をまもる会の活動の1つとして誕生しました。


1973年(昭和48年)5月5日「中之島まつり」開催
同年10月28日「くるくるフェスティバル(第2回中之島まつり)」開催
(その他にも「まもる会」は、文化講演会、銀輪パレード、夕涼み会、ぬいぐるみ人形パレード、絵葉書・歌集の発行などの活動を行なっています。)




 そして、1974年(昭和49年)5月4・5日「第3回中之島まつり」が開催されたこの年、府立図書館が重要文化財に指定され、市庁舎の向かいにある日本銀行大阪支店(明治36年建)が外観保存しての設計変更へと成果をあげました。
「中之島まつり実行委員会」

 まもる会の運動が着実に成果をあげる中、「中之島まつり」そのものが文化の市民運動として大きな役割を持ち始めました。いろんな人が参加出来る中之島ま つり。中之島をまもる会すら1つの参加団体として取り込める大きなまつりにしようと、中之島まつり実行委員会が発足しました。

 初めて実行委員会の主催で「第4回中之島まつり」が1975年(昭和50年)5月3・4・5日に開催されました。
 しかし、実行委員会発足にともない、議論が沸騰しました。
「いったい、何のためにまつりをするんや?」論争です。
大きくは、「何のためでもなく、自分たちのまつりを創り出す。面白いまつりを創ればええ。」組と、「まもる会の精神を忘れたらあかん。中之島保存を、まつりの場で行動として示すんや。」組です。
 この白熱論議を遠因とし、就職、結婚といった個人のライフスタイルの変わり目が重なり、創立メンバーがかなり抜けてしまいました。この論議の決着は宙ぶ らりんのまま、この後中之島まつりは年を重ねていきます。(一人一人が自由に発言し、表現する。という中之島まつりの精神からいくと決着がつくわけがあり ません。この論議そのものが中之島まつりらしい、と言えます。)

「まつり=ひろば論」

1981年(昭和56年)
当初(まもる会時代)から問題になっている中之島公園一帯の保全は、日銀の外観保存、府立図書館の重要文化財指定、市庁舎は8階建ての新庁舎(高層ビルではなくなった)へ。あとは中央公会堂はどうなるか?が注目されてきました。

 中之島まつりはといえば、まつりの存在を知って、積極的に働きかけてくるグループ、団体がふえてきていました。まつりの中に自分たちの活動の場を発見したのです。市民の間にも定着してきました。
中之島まつりが誕生してちょうど10年。まつりは大きくなっていました。
ここで再び「中之島まつりとはなんだろう?」「なぜ、我々は中之島まつりをやるのだろう?」という本質が実行委員の中から問われました。

その話し合いの中での代表的な考え方は、「まつり=ひろば」論です。


それは、
「神なきまつり」である中之島まつりでは、参加した人たちが楽しみ、喜ぶことが第一目的だが、 楽しみや喜びは他にいくらでもある。集まった多くの人たちがそれぞれの主体性を持って、既成でない、与えられたものではない何かを創り出し、さらに、人間 の関係をも作っていくことに意味がある。そういうものを創り出す場所(ひろば)を、都市の中に創っていく運動が文化の市民運動である。
といったものでした。

「中之島まつり協会」

 まつりの意義を話しあいつつ、組織や運営についても話し合われました。
「まつりに参加する人は、すべて実行委員(主催者)である。」の原則のもとに、毎年実行委員会を結成しなおして進めていました。しかし、各年ごとの運営組 織では、責任体制もはっきりしないし、財政も不安定になる。中之島まつりのオフシーズン(だいたい7月〜12月)に、講演やイベントへの協力要請などが あった場合、なにより「ひろばを創り出す」活動を「中之島まつり以外」で、おこしたい場合にどう対応すればよいのか・・・


 そういったことから、「中之島まつり協会」が発足しました。
大阪の文化、経済、政界を代表する人々を顧問にむかえ、「中之島まつりの主催・責任を持つ」「恒常的に文化の市民運動を行なう」事を目的にした事で、上記の問題に対応したのです。
また、この頃から企業協賛・広告を広く集めるということが始まったようです。

「二重組織」

 しかし、主催中之島まつり協会・運営中之島まつり実行委員会という構造で全てがうまくいったわけではありませんでした。財政基盤にしようとした協会費の 集まりが悪いといった事や、専従組織を持ち得ない協会が実行委員会と明確な区別がつかないといった事から、結局、協会の活動というのは、実行委員会有志の 活動と同じではないか、「協会は何もしない」という批判が徐々に大きくなっていました。

 協会と実行委員会との対立(協会の実動メンバーは当然実行委員でもあるので当人達はややこしい立場だった)は、水面下で広がりつづけ、実行委員は二重組織どころではない分裂状態になってしまいました。

・協会員であり実行委員でもある人
・協会は何もしないと怒っている、協会員であり実行委員でもある人
・協会は何もしないと怒っている、実行委員
・協会の事を知らない実行委員
・自分は実行委員(主催者)ではなく参加者だ、と思っている実行委員

「二重組織の終焉」

 それでも、その形態のままで10年以上が経ちました。
その間にも中之島まつりは大きくなりつづけ、新陳代謝、世代交替を繰り返していました。中央公会堂は、免震構造工事の上、永久保存されることに決まり、出発点だった中之島公園保存運動は、一応の決着をみました。

 中之島まつり協会が無くなったのは、1996年(平成8年)の事です。
 実際には、その数年前から協会会議といったものも無くなっており、残っているのは名前だけでした。
 「中之島まつりの主催・責任を持つ」「恒常的に文化の市民運動を行なう」事を実行委員会が受け継いでいたのです。そこで、実行委員会の解散後次の結成までの間は前年の執行部(実行委員長からゾーン長、企画長くらいまで、年によって変動あり)が引き継ぐこととしました。

 中之島まつり協会の特徴であった「恒常的に文化の市民運動を行なう」は、自発的な活動ではなくなり、要請を受けて協力するといった形へと変わっていきま した。そうなってくると、「何でそんな事せなあかんの?」といった、疑問も出てきます。「中之島まつりをすること自体が、文化の市民運動、ひろばづくりな ら、それをこそ集中してやらなければ」といった意見も。

「これからの中之島まつり」

 拡大傾向にあった中之島まつりも21世紀に入ってから足踏み状態になりました。
「こんな企画をしよう!」という事をいいだす実行委員は減っています。
もちろん、面白い企画を手伝いたいという人も減っています。
しかし、中之島まつりに店を出したいという団体は増えています。
中之島保存運動は一応決着しました。

 「これからの中之島まつり」と書いてみましたが、どうなっていくのか、どうしていけばいいのか、きっと誰にもわからないのではないでしょうか。その答え は昔から繰り返し話し合われている「中之島まつりとはなんだろう?」「なぜ、我々は中之島まつりをやるのだろう?」の中にあるのだと思います。

 70年代と違い、街の中にゲームセンターやカラオケなどがふんだんにあり、街頭でのパフォーマンスも当たり前になり、たくさんのイベントが行なわれている。
それでも「中之島まつり」をしたいのでしょうか?
どんな「中之島まつり」をしたいのでしょうか?

 拡大傾向にあった中にも、こういう意見もありました。

 「本当に楽しみたいものが、じっくり時間をかけてよいものを創り、すばらしい内容のまつりにするべきだ。そのためにこじんまりしたものになったとしても仕方がないのではないか。」

 すべての価値観が普遍ではないという事が目の前に突きつけられたこの時代。中之島まつりにとって必要なのはこういう事なのかもしれません。

2001年8月1日・記
2009年7月16日・改訂